お彼岸やお盆、日本には先祖を尊ぶ美しい文化がある。家族みんなで手を合わせ、おじいちゃんやおばあちゃんに祈りを捧げる。その瞳の先には、天国の住まいであるお墓があるのではないだろうか。福岡市早良区に拠点を持つ「エスアンドエフ福岡」は、お墓清掃を事業としている。お墓清掃という日本においても珍しい事業を展開する代表の小森氏に、その半生や事業展開のきっかけについてお話を伺った。
お彼岸やお盆、日本には先祖を尊ぶ美しい文化がある。家族みんなで手を合わせ、おじいちゃんやおばあちゃんに祈りを捧げる。その瞳の先には、天国の住まいであるお墓があるのではないだろうか。
福岡市早良区に拠点を持つ「エスアンドエフ福岡」は、お墓清掃を事業としている。お墓清掃という日本においても珍しい事業を展開する代表の小森氏に、その半生や事業展開のきっかけについてお話を伺った。
心躍る その先へ
西川:
還暦を間近に新しいことにチャレンジしている小森さんですが、そのバイタリティは人生のどの段階で育まれたものなんでしょうか?
小森:
精神力という面では、大学時代の経験が大きかったと思いますね。大学は愛知県にある中京大学体育学部に在籍していました。幼い頃から裸足で大阪の田舎町を走り回っては、友人たちと遊ぶ毎日を過ごしていましたから、自然に体を動かすことが好きになっていったんだと思います。
大学4年間を熱中できるものに費やしたいという思いで入部したのは、新体操部で、監督からの厳しい指導を受けながら新体操漬けの日々を送っていましたね。そのなかで、高い目標を自身に課しクリアしては大きな充実感を感じ、目標に対して脇目を振らず邁進することでくじけない心を得ることができたと思います。心身ともに成長を感じられた4年間でしたね。
一生懸命に打ち込んだ甲斐もあって、念願だった全日本インカレに出場することもできましたし、大学時代に新体操に打ち込んだことは人生においてもチャレンジすることの重要性や達成することへの貪欲さを培い、それが今のバイタリティに繋がっているのだと思います。
西川:
大学を卒業した後はどのような進路に進んだんですか?
小森:
大学が中京大学の体育学部ということもあり、卒業後は体育教師の道に進みました。子どもたちに体を動かすことの楽しさを伝えたいという想いもありましたね。教師という道を進む傍らで、大学時代に打ち込んだ「新体操」への気持ちが冷めることはありませんでした。有志を募って社会人チームを作り、大会への出場のため日々練習を重ねていました。振り返ると大学生活を含めて20代は「新体操」一色の時代だったと思いますね。
西川:
教員生活は数年間とお伺いしたのですが、その後はどんな業界で活躍されたんですか?
小森:
教師を辞めるにあたって、何の仕事をしたいかなと色々と迷ったんですね。大学時代から旅行が好きで、特に海外に興味があったことや兄が商社マンで海外を行き来していたことも影響して、旅行代理店に転職しました。添乗員として、様々な国を訪れて文化や風習の違いを感じると同時に、日本文化の素晴らしさに改めて気づかされましたね。
西川:
旅行業界を退職後は、ご自身で事業をスタートさせたとのことですが、エスアンドエフ立ち上げのきっかけを教えてください
小森:
「僕といっしょに仕事せえへん」と家業で自動車部品のリビルト品を取り扱っている後輩から声がかかったんですね。旅行会社での仕事に限界を感じていたこともありましたし、組織で動くということに疲弊していた部分もあります。後輩からの誘いは魅力的に感じましたが、再びサラリーマンとして組織の中で働くということには抵抗感がありました。そういった率直な気持ちを後輩に話すと、彼は「じゃあ自分で会社を興して、一緒にやらへんか」と誘ってくれたんですね。
そうして、自動車部品のリビルト品の卸事業を主事業とした「エスアンドエフ福岡」を立ち上げるに至ったんです。まずは、株式登記せずに個人事業主としてスタートを切りましたね。
西川:
当時はどんな仕事をしていたんですか?
小森:
後輩の営んでいる大阪のリビルトメーカーからエスアンドエフ福岡が仕入れて、九州内の自動車事業を行っている整備工場や中古車販売店に部品を販売する仕事をしていましたね。すでに九州内の販路はある程度確保されていたこともあり、創業当初から順調に売上を伸ばしていくことができました。
しかし、次第に後輩の会社からの仕入れが滞るようになってきたんです。自社としては、仕入れができなければ販売することも難しいため、事業運営においては死活問題です。後輩に掛け合い、現状をヒアリングしてみるとその要因は海外からリビルト品を仕入れる人員が不足していることに起因していました。仕入れに関して、今の状態が続けば次第に自社も立ち行かなくなるという思いもあって、エスアンドエフが海外からの仕入れ業務を一部請け負うことになっていきます。
海外での交渉事は旅行代理店時代に多く経験したこともあり、抵抗感なく業務を進めることができましたが、人員不足という背景もあり忙殺される日々を過ごしていました。業務が忙しくなるにつれて、福岡を拠点とした生活では支障が出始め、家族を福岡に残して大阪に拠点を移すことになっていきました。
西川:
海外に慣れていた小森さんだからこそ出来た仕事ですよね。家族と離れて大阪で働くことは大変だったのではないですか?
小森:
家族と頻繁に会うことができないという意味では、寂しいな…という部分はありました。ただ、大阪という生まれ育った街で仕事をするという意味においては心機一転頑張るぞ!という気持ちにもなっていましたね。実家も大阪にありましたし、今思えば両親と過ごす時間が確保できたことは人生において価値があったのかもしれません。
心躍る その先へ
西川:
還暦を間近に新しいことにチャレンジしている小森さんですが、そのバイタリティは人生のどの段階で育まれたものなんでしょうか?
小森:
精神力という面では、大学時代の経験が大きかったと思いますね。大学は愛知県にある中京大学体育学部に在籍していました。幼い頃から裸足で大阪の田舎町を走り回っては、友人たちと遊ぶ毎日を過ごしていましたから、自然に体を動かすことが好きになっていったんだと思います。
大学4年間を熱中できるものに費やしたいという思いで入部したのは、新体操部で、監督からの厳しい指導を受けながら新体操漬けの日々を送っていましたね。そのなかで、高い目標を自身に課しクリアしては大きな充実感を感じ、目標に対して脇目を振らず邁進することでくじけない心を得ることができたと思います。心身ともに成長を感じられた4年間でしたね。
一生懸命に打ち込んだ甲斐もあって、念願だった全日本インカレに出場することもできましたし、大学時代に新体操に打ち込んだことは人生においてもチャレンジすることの重要性や達成することへの貪欲さを培い、それが今のバイタリティに繋がっているのだと思います。
西川:
大学を卒業した後はどのような進路に進んだんですか?
小森:
大学が中京大学の体育学部ということもあり、卒業後は体育教師の道に進みました。子どもたちに体を動かすことの楽しさを伝えたいという想いもありましたね。
教師という道を進む傍らで、大学時代に打ち込んだ「新体操」への気持ちが冷めることはありませんでした。有志を募って社会人チームを作り、大会への出場のため日々練習を重ねていました。
振り返ると大学生活を含めて20代は「新体操」一色の時代だったと思いますね。
西川:
教員生活は数年間とお伺いしたのですが、その後はどんな業界で活躍されたんですか?
小森:
教師を辞めるにあたって、何の仕事をしたいかなと色々と迷ったんですね。大学時代から旅行が好きで、特に海外に興味があったことや兄が商社マンで海外を行き来していたことも影響して、旅行代理店に転職しました。
添乗員として、様々な国を訪れて文化や風習の違いを感じると同時に、日本文化の素晴らしさに改めて気づかされましたね。
西川:
旅行業界を退職後は、ご自身で事業をスタートさせたとのことですが、エスアンドエフ立ち上げのきっかけを教えてください
小森:
「僕といっしょに仕事せえへん」
家業で自動車部品のリビルト品を取り扱っている後輩から声がかかったんですね。旅行会社での仕事に限界を感じていたこともありましたし、組織で動くということに疲弊していた部分もあります。
後輩からの誘いは魅力的に感じましたが、再びサラリーマンとして組織の中で働くということには抵抗感がありました。そういった率直な気持ちを後輩に話すと、彼は「じゃあ自分で会社を興して、一緒にやらへんか」と誘ってくれたんですね。
そうして、自動車部品のリビルト品の卸事業を主事業とした「エスアンドエフ福岡」を立ち上げるに至ったんです。まずは、株式登記せずに個人事業主としてスタートを切りましたね。
西川:
当時はどんな仕事をしていたんですか?
小森:
後輩の営んでいる大阪のリビルトメーカーからエスアンドエフ福岡が仕入れて、九州内の自動車事業を行っている整備工場や中古車販売店に部品を販売する仕事をしていましたね。すでに九州内の販路はある程度確保されていたこともあり、創業当初から順調に売上を伸ばしていくことができました。
しかし、次第に後輩の会社からの仕入れが滞るようになってきたんです。自社としては、仕入れができなければ販売することも難しいため、事業運営においては死活問題です。後輩に掛け合い、現状をヒアリングしてみるとその要因は海外からリビルト品を仕入れる人員が不足していることに起因していました。
仕入れに関して、今の状態が続けば次第に自社も立ち行かなくなるという思いもあって、エスアンドエフが海外からの仕入れ業務を一部請け負うことになっていきます。
海外での交渉事は旅行代理店時代に多く経験したこともあり、抵抗感なく業務を進めることができましたが、人員不足という背景もあり忙殺される日々を過ごしていました。業務が忙しくなるにつれて、福岡を拠点とした生活では支障が出始め、家族を福岡に残して大阪に拠点を移すことになっていきました。
西川:
海外に慣れていた小森さんだからこそ出来た仕事ですよね。家族と離れて大阪で働くことは大変だったのではないですか?
小森:
家族と頻繁に会うことができないという意味では、寂しいな…という部分はありました。ただ、大阪という生まれ育った街で仕事をするという意味においては心機一転頑張るぞ!という気持ちにもなっていましたね。
実家も大阪にありましたし、今思えば両親と過ごす時間が確保できたことは人生において価値があったのかもしれません。
苦悩と感謝の日々
西川:
個人事業主として活躍されて、その後法人化していますよね。それは、当時の事業が軌道に乗って法人化に至ったんですか?
小森:
後輩の会社から任せられていた海外からの仕入れ業務が軌道に乗ったというわけではないんですね。しかし、海外からの仕入れ業務を行っていたからこそ法人化できたという背景はあります。
仕入れ業務を行っているときに出会ったリビルトメーカーの社長から「小森さんが法人化してくれたら、自社の製品を卸すことはできるよ」と声をかけてくれたんですね。自分で言うのも恥ずかしいですが、海外仕入れの仕事ぶりを評価いただいたことが大きかったとは思います。その話をいただいて、これまでお世話になった後輩の会社との関係を断つことは心苦しかったですが、私自身の気持ちとこれまでの貢献を汲んでいただいて円満に去ることができました。
いまでも、先輩後輩の関係性は続いていますよ!そうして、エスアンドエフを法人化し新たな門出を迎えることになります。
西川:
エスアンドエフ株式会社としてスタートしましたが、業務内容はさほど変わらなかったんですか?
小森:
海外から部品を仕入れて日本企業に販売する。また、日本企業から仕入れて海外に販売するという双方の事業を展開していました。しかし、次第に日本から仕入れて海外で販売するという部分のウェイトが大きくなり、生活の中心は海外になっていきました。2007年から2009年ごろはタイと台湾を行ったり来たりする生活が長く続きましたね。日本に帰ってくるのは3〜4ヶ月に1回程度でしたから、日本食が恋しくなりましたよ。
西川:
2007年から2009年頃ということはリーマンショックがあった時期ですが、事業に影響はありませんでしたか?
小森:
為替の影響を大きく受ける業態であったので、リーマンショックは大きなキズあとを残しましたね。
当時の事業は大半は日本で仕入れた商品を海外で販売することが主になっていたので、リーマンショックで為替が超円高に振れたことは輸出企業にとっては大きな痛手になりました。海外の顧客は私が今まで販売していた商材を3割り増し程度で購入しなければいけないという状況になり、営業しても営業しても全然売れませんでしたね。また、受注生産で予約をいただいていたお客様からも大量のキャンセル申し込みがあり、会社の存続が危ぶまれる状況にまで追い詰められました。
そんな状況が長く続いたことで、海外に拠点を置く必要性もなくなりましたし、もう一度日本に帰って今後の体制を立て直そうという思いで帰国することにしました。
西川:
日本に帰国した後は、リビルト品の卸販売事業を継続されたんですか?
小森:
その後九州に戻ってから、今までの人生を一度振り返ってみたんです。自動車リビルト卸販売も長くやっていましたし、心のどこかで不本意な形にはなってしまったんですがやり切ったという思いはありました。また、新たな挑戦をしたいという思いも同時に芽生えてきたんです。しかし、当時は子どもたちもまだまだ学費がかかる年代でしたし、とにかく何か働いてお金を稼ぐ必要があったのも事実です。自分の思いと現実が乖離して、その狭間でもがいている時期でもあったのかもしれません。
迷っていても学費が免除されるわけでも、生活が楽になるわけでもありません。そうして、手持ちの軽バンを武器に配送委託業をスタートさせました。大手運送会社からの業務委託を受けて、企業や個人宅に荷物を配送する仕事ですね。だいたい、月に30万円程度の稼ぎにはなりましたが燃料費や車両費は全て自費になるため、経費を引けば手元に残る金額は15万円程度にしかなりませんでした。しかし、背に腹は変えられません。なんとかがむしゃらに働き続けましたね。
西川:
配送業を長く続けられたんですか?
小森:
配送業はしばらくは続けていました。このまま続けることは経済的にも体力的にも、どこかで限界が来るのではないか…と考えていたころに、以前お世話になっていた大阪のリビルトメーカーで働く後輩から連絡が入ったんです。私が仕入れ業務を請け負っていた頃は、後輩は経営者という立場ではありませんでしたが、自身の父親が亡くなられたことで事業承継を行い社長という立場になっていました。
「小森さん、またお願いできへんかな…」と再び私を誘ってくれたんですね。やり切った感のあったリビルト業界での仕事ではありましたが、私を必要としてくれている後輩の誘いがとても嬉しかったことを覚えています。
西川:
リビルトメーカーへ再復帰を果たしたわけですが、どのような仕事を任せられていたんですか?
小森:
基本的には以前の仕事内容と変わりません。海外からの仕入れが中心でしたが、国内企業に対する営業活動を以前よりも積極的に行っていました。国内大手重工業メーカーへの商談を繰り返したりと大きな案件も複数抱えるようになっていましたね。役職を与えられたこともあり、以前働いていたときよりもダイナミックな仕事ができるようになっていきました。やりがいも大きく感じていましたね。
50代後半になり退職するまで、良いことや悪いことも含めて様々な経験を得ることができた場所になりました。出会った全ての人々には感謝しかありませんね。
苦悩と感謝の日々
西川:
個人事業主として活躍されて、その後法人化していますよね。それは、当時の事業が軌道に乗って法人化に至ったんですか?
小森:
後輩の会社から任せられていた海外からの仕入れ業務が軌道に乗ったというわけではないんですね。しかし、海外からの仕入れ業務を行っていたからこそ法人化できたという背景はあります。
仕入れ業務を行っているときに出会ったリビルトメーカーの社長から「小森さんが法人化してくれたら、自社の製品を卸すことはできるよ」と声をかけてくれたんですね。自分で言うのも恥ずかしいですが、海外仕入れの仕事ぶりを評価いただいたことが大きかったとは思います。その話をいただいて、これまでお世話になった後輩の会社との関係を断つことは心苦しかったですが、私自身の気持ちとこれまでの貢献を汲んでいただいて円満に去ることができました。
いまでも、先輩後輩の関係性は続いていますよ!そうして、エスアンドエフを法人化し新たな門出を迎えることになります。
西川:
エスアンドエフ株式会社としてスタートしましたが、業務内容はさほど変わらなかったんですか?
小森:
海外から部品を仕入れて日本企業に販売する。また、日本企業から仕入れて海外に販売するという双方の事業を展開していました。しかし、次第に日本から仕入れて海外で販売するという部分のウェイトが大きくなり、生活の中心は海外になっていきました。
2007年から2009年ごろはタイと台湾を行ったり来たりする生活が長く続きましたね。日本に帰ってくるのは3〜4ヶ月に1回程度でしたから、日本食が恋しくなりましたよ。
西川:
2007年から2009年頃ということはリーマンショックがあった時期ですが、事業に影響はありませんでしたか?
小森:
為替の影響を大きく受ける業態であったので、リーマンショックは大きなキズあとを残しましたね。
当時の事業は大半は日本で仕入れた商品を海外で販売することが主になっていたので、リーマンショックで為替が超円高に振れたことは輸出企業にとっては大きな痛手になりました。海外の顧客は私が今まで販売していた商材を3割り増し程度で購入しなければいけないという状況になり、営業しても営業しても全然売れませんでしたね。また、受注生産で予約をいただいていたお客様からも大量のキャンセル申し込みがあり、会社の存続が危ぶまれる状況にまで追い詰められました。
そんな状況が長く続いたことで、海外に拠点を置く必要性もなくなりましたし、もう一度日本に帰って今後の体制を立て直そうという思いで帰国することにしました。
西川:
日本に帰国した後は、リビルト品の卸販売事業を継続されたんですか?
小森:
その後九州に戻ってから、今までの人生を一度振り返ってみたんです。自動車リビルト卸販売も長くやっていましたし、心のどこかで不本意な形にはなってしまったんですがやり切ったという思いはありました。また、新たな挑戦をしたいという思いも同時に芽生えてきたんです。
しかし、当時は子どもたちもまだまだ学費がかかる年代でしたし、とにかく何か働いてお金を稼ぐ必要があったのも事実です。自分の思いと現実が乖離して、その狭間でもがいている時期でもあったのかもしれません。
迷っていても学費が免除されるわけでも、生活が楽になるわけでもありません。そうして、手持ちの軽バンを武器に配送委託業をスタートさせました。大手運送会社からの業務委託を受けて、企業や個人宅に荷物を配送する仕事ですね。だいたい、月に30万円程度の稼ぎにはなりましたが燃料費や車両費は全て自費になるため、経費を引けば手元に残る金額は15万円程度にしかなりませんでした。しかし、背に腹は変えられません。なんとかがむしゃらに働き続けましたね。
西川:
配送業を長く続けられたんですか?
小森:
配送業はしばらくは続けていました。このまま続けることは経済的にも体力的にも、どこかで限界が来るのではないか…と考えていたころに、以前お世話になっていた大阪のリビルトメーカーで働く後輩から連絡が入ったんです。
私が仕入れ業務を請け負っていた頃は、後輩は経営者という立場ではありませんでしたが、自身の父親が亡くなられたことで事業承継を行い社長という立場になっていました。
「小森さん、またお願いできへんかな…」と再び私を誘ってくれたんですね。やり切った感のあったリビルト業界での仕事ではありましたが、私を必要としてくれている後輩の誘いがとても嬉しかったことを覚えています。
西川:
リビルトメーカーへ再復帰を果たしたわけですが、どのような仕事を任せられていたんですか?
小森:
基本的には以前の仕事内容と変わりません。海外からの仕入れが中心でしたが、国内企業に対する営業活動を以前よりも積極的に行っていました。
国内大手重工業メーカーへの商談を繰り返したりと大きな案件も複数抱えるようになっていましたね。役職を与えられたこともあり、以前働いていたときよりもダイナミックな仕事ができるようになっていきました。やりがいも大きく感じていましたね。
50代後半になり退職するまで、良いことや悪いことも含めて様々な経験を得ることができた場所になりました。出会った全ての人々には感謝しかありませんね。
天国の住まい清掃業
西川:
60歳間近になって会社を退職されたわけですが、それからどういった経緯で現在の「墓清掃業」を始めるに至ったのですか?
小森:
きっかけは母親の死にあります。母親の死は私にとって大きな喪失感を生みました。親孝行できただろうか?母親は幸せだっただろうか…?新体操でのわたしの活躍を収めたアルバムに「よしき」と記された字を見ては、母の姿を思い出しあふれる涙を抑えきれませんでした。
しかし、悲しみをいつまでも引きずることはできません。母を失った喪失感はあるものの、現実問題として相続関係や実家のことなど様々な事柄を決めていく必要がありました。まずは、母が生活していた実家の整理から始めることになり、そこで遺品整理という作業にふれることになります。数十年間という時間で溜め込んだモノたちは、300kg積載の軽バン5回分の量になり、遺品整理の大変さを身に染みて感じました。 私と同じように「遺品整理」について悩みを抱える人は多いのではないか…という気づきを得ると同時に「遺品整理士」という資格があることを知りました。しかし、産廃業などの経験がない私にとって「遺品整理」をスタートするにはあまりにもハードルが高いと判断せざるをえませんでした。
遺品整理という分野でのチャレンジは諦めたものの、自分の残りの時間で困っている人々に寄り添い貢献できる仕事はないだろうかと考えていたところ、ふと母のお墓に足が向かいました。訪れた霊園で、あることに気づいたんです。それは、掃除もされずに水垢や泥ぼこりで汚れてしまい雑草が覆い茂っているお墓の多さだったんです。
先祖代々供養され大切にすべき墓の粗末な扱いに驚かされたと同時に、なぜそうなったのかと疑問に感じたんですね。その背景には、地方での急速な高齢化と都市部への人口の集中があります。地方で管理されている墓は、何百キロも離れた都市部に住む子どもたちには足を運びづらいという問題がありました。祖父母や両親が眠る墓を汚いままにしておいてもいい!と考える人は多くはいないでしょう。しかし、わざわざ足を運び管理するのは難しい。そういった人々の悩みを解消する仕事をしたいと「墓清掃」の事業をスタートすることにしました。
西川:
リビルトメーカーの技術と墓清掃の技術では、まったくの畑違いですがどのように技術を習得したんですか?
小森:
名古屋に拠点を持つ「アシストーン株式会社」にお世話になりました。「アシストーン」は3万基以上の実績を持つ石材掃除の会社です。墓清掃の勉強を独学で行うのは難しく、実績のある会社から生きた技術を学びたいという想いもありアシストーンに決めましたね。
実際に名古屋に行って座学と実地研修を受けました。石の掃除というのは難しく奥が深いものでした。鉄やステンレスと違って洗剤が染み込んで色が変わりやすいのが石という素材です。そのため汚れと材質に合わせた洗剤選び、さらには石を傷つけない掃除の技術を得るために必死に学びました。
お墓はお客様とそのご家族ご親戚、ご先祖様からご子孫の方々と大勢の方にとって代わりの利かないとても大事なものです。それゆえ失敗は絶対に許されません。責任感を常に持ってご依頼に臨むよう心がけています。
西川:
墓清掃の事業をスタートして、印象に残った出来事はありますか?
小森:
お客様の多くは都市部に生活する50〜70代の方々になります。地方のお墓の管理が難しいため、代わりに掃除をしてほしいという依頼ですね。そんなお客様の中で、珍しく30代前半の若い男性からご連絡をいただきました。内容は、祖父母が眠る墓を綺麗にしてほしいということでした。
「昔からばぁちゃんっ子で、ばぁちゃんにはたくさん愛情をもらって育ててもらったから、遅くなったけど恩返しがしたい」と話すんですね。都市部に住む彼は、一度墓掃除のために帰省したみたいなんですが、古い墓石ということもあり汚れを落とすことが難しかったようです。そこで、私に依頼があり墓清掃をすることになりました。
若者の祖母を思う美しい心に感銘を受けながら、ありったけの技術で墓清掃をさせていただきました。施工後の写真を撮影し送付すると、とても喜んでいただき私自身も墓清掃事業を始めてよかったと心から思う出来事になりましたね。
西川:
事業を展開していく上で悩みや課題と感じていることはありますか?
小森:
まだまだ知名度が低いため、新規のお客様の獲得には大きな課題を抱えていますね。営業という部分では、長年の経験があるため目標を持って取り組んでいるのですが、墓清掃というサービスは「必要性」を感じていただくことが改めて難しい商材だと常々感じています。地方に放置された「汚墓」を少しでも減らし、本来日本人が持っていた祖先を敬う心を取り戻すべく頑張っていきますよ。
西川:
還暦を間近にして新たな挑戦をはじめ、もがきながらもワクワクした日々を過ごす小森氏にお伺いしたいのですが、小森氏と同年代の社会で活躍する人々に対して伝えたいことはありますか?
小森:
「定年前に会社を辞めろ」
少し乱暴に聞こえるかもしれませんが、世の中の同期たちに声を大にして伝えたいですね。私の先輩や知り合いには、定年を迎えて「さぁ、これから」というタイミングで体調を崩したり病気になった人が大勢います。持論ではありますが定年退職というのは1つの「アガリ」なんだと思います。
これまで長年会社に尽くしてきたことは、人々からの称賛に値することです。しかしながら、常に泳いでいないと死んでしまうマグロのように、定年退職を迎え「仕事」という拠り所を失った彼らの屋台骨はそれと同時に揺らいでしまうことがよくあるんです。
まだ体力のある50代で仕事を辞めて、新たな分野にチャレンジすることは人生を豊かなものにすることと同時に、健やかな人生を送るためにも重要なことだと思います。今まで培ってきた経験や技術は、1日2日で得られるものではありません。これまでは、組織の中で埋もれていた技術であったとしても、その経験や技術で救える人々は大勢います。人生100年時代と耳にすることも多くなりました。まだまだ、60歳は青年期ですよ。もう一花咲かせましょう!
天国の住まい清掃業
西川:
60歳間近になって会社を退職されたわけですが、それからどういった経緯で現在の「墓清掃業」を始めるに至ったのですか?
小森:
きっかけは母親の死にあります。母親の死は私にとって大きな喪失感を生みました。親孝行できただろうか?母親は幸せだっただろうか…?新体操でのわたしの活躍を収めたアルバムに「よしき」と記された字を見ては、母の姿を思い出しあふれる涙を抑えきれませんでした。
しかし、悲しみをいつまでも引きずることはできません。母を失った喪失感はあるものの、現実問題として相続関係や実家のことなど様々な事柄を決めていく必要がありました。
まずは、母が生活していた実家の整理から始めることになり、そこで遺品整理という作業にふれることになります。数十年間という時間で溜め込んだモノたちは、300kg積載の軽バン5回分の量になり、遺品整理の大変さを身に染みて感じました。
私と同じように「遺品整理」について悩みを抱える人は多いのではないか…という気づきを得ると同時に「遺品整理士」という資格があることを知りました。しかし、産廃業などの経験がない私にとって「遺品整理」をスタートするにはあまりにもハードルが高いと判断せざるをえませんでした。
遺品整理という分野でのチャレンジは諦めたものの、自分の残りの時間で困っている人々に寄り添い貢献できる仕事はないだろうかと考えていたところ、ふと母のお墓に足が向かいました。訪れた霊園で、あることに気づいたんです。それは、掃除もされずに水垢や泥ぼこりで汚れてしまい雑草が覆い茂っているお墓の多さだったんです。
先祖代々供養され大切にすべき墓の粗末な扱いに驚かされたと同時に、なぜそうなったのかと疑問に感じたんですね。その背景には、地方での急速な高齢化と都市部への人口の集中があります。地方で管理されている墓は、何百キロも離れた都市部に住む子どもたちには足を運びづらいという問題がありました。
祖父母や両親が眠る墓を汚いままにしておいてもいい!と考える人は多くはいないでしょう。しかし、わざわざ足を運び管理するのは難しい。そういった人々の悩みを解消する仕事をしたいと「墓清掃」の事業をスタートすることにしました。
西川:
リビルトメーカーの技術と墓清掃の技術では、まったくの畑違いですがどのように技術を習得したんですか?
小森:
名古屋に拠点を持つ「アシストーン株式会社」にお世話になりました。「アシストーン」は3万基以上の実績を持つ石材掃除の会社です。墓清掃の勉強を独学で行うのは難しく、実績のある会社から生きた技術を学びたいという想いもありアシストーンに決めましたね。
実際に名古屋に行って座学と実地研修を受けました。石の掃除というのは難しく奥が深いものでした。鉄やステンレスと違って洗剤が染み込んで色が変わりやすいのが石という素材です。そのため汚れと材質に合わせた洗剤選び、さらには石を傷つけない掃除の技術を得るために必死に学びました。
お墓はお客様とそのご家族ご親戚、ご先祖様からご子孫の方々と大勢の方にとって代わりの利かないとても大事なものです。それゆえ失敗は絶対に許されません。責任感を常に持ってご依頼に臨むよう心がけています。
西川:
墓清掃の事業をスタートして、印象に残った出来事はありますか
小森:
お客様の多くは都市部に生活する50〜70代の方々になります。地方のお墓の管理が難しいため、代わりに掃除をしてほしいという依頼ですね。
そんなお客様の中で、珍しく30代前半の若い男性からご連絡をいただきました。内容は、祖父母が眠る墓を綺麗にしてほしいということでした。「昔からばぁちゃんっ子で、ばぁちゃんにはたくさん愛情をもらって育ててもらったから、遅くなったけど恩返しがしたい」と話すんですね。
都市部に住む彼は、一度墓掃除のために帰省したみたいなんですが、古い墓石ということもあり汚れを落とすことが難しかったようです。そこで、私に依頼があり墓清掃をすることになりました。
若者の祖母を思う美しい心に感銘を受けながら、ありったけの技術で墓清掃をさせていただきました。施工後の写真を撮影し送付すると、とても喜んでいただき私自身も墓清掃事業を始めてよかったと心から思う出来事になりましたね。
西川:
事業を展開していく上で悩みや課題と感じていることはありますか?
小森:
まだまだ知名度が低いため、新規のお客様の獲得には大きな課題を抱えていますね。
営業という部分では、長年の経験があるため目標を持って取り組んでいるのですが、墓清掃というサービスは「必要性」を感じていただくことが改めて難しい商材だと常々感じています。
地方に放置された「汚墓」を少しでも減らし、本来日本人が持っていた祖先を敬う心を取り戻すべく頑張っていきますよ。
西川:
還暦を間近にして新たな挑戦をはじめ、もがきながらもワクワクした日々を過ごす小森氏にお伺いしたいのですが、小森氏と同年代の社会で活躍する人々に対して伝えたいことはありますか?
小森:
「定年前に会社を辞めろ」
少し乱暴に聞こえるかもしれませんが、世の中の同期たちに声を大にして伝えたいですね。私の先輩や知り合いには、定年を迎えて「さぁ、これから」というタイミングで体調を崩したり病気になった人が大勢います。持論ではありますが定年退職というのは1つの「アガリ」なんだと思います。
これまで長年会社に尽くしてきたことは、人々からの称賛に値することです。しかしながら、常に泳いでいないと死んでしまうマグロのように、定年退職を迎え「仕事」という拠り所を失った彼らの屋台骨はそれと同時に揺らいでしまうことがよくあるんです。
まだ体力のある50代で仕事を辞めて、新たな分野にチャレンジすることは人生を豊かなものにすることと同時に、健やかな人生を送るためにも重要なことだと思います。
今まで培ってきた経験や技術は、1日2日で得られるものではありません。これまでは、組織の中で埋もれていた技術であったとしても、その経験や技術で救える人々は大勢います。人生100年時代と耳にすることも多くなりました。まだまだ、60歳は青年期ですよ。もう一花咲かせましょう!
<店舗情報>
店名:
エスアンドエフ福岡
住所:
福岡県福岡市早良区南庄4-13-14
電話:
(090) 1902 - 9028
営業時間:
9:00〜18:00
HP:
定休日:
なし
<店舗情報>
店名:
エスアンドエフ福岡
住所:
福岡県福岡市早良区南庄4-13-14
電話:
(090) 1902 - 9028
営業時間:
9:00〜18:00
HP:
定休日:
なし